黙示 読み:もくし/もくじ)
とは、
『何かを口出さずに伝えること』
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教
『神からの教え』
黙示 読み:もくし/もくじ)
とは、
『何かを口出さずに伝えること』
『神からの教え』
菊の節句 読み:きくのせっく
栗の節句 読み:くりのせっく
重陽 読み:ちょうよう
とは、
『9月の節句』
9月9日
菊の節句は、旧暦を使用していた頃は五節句を締めくくる最後の行事として盛んに行われていた。
改暦以降は新暦で行事を行うようになり、菊の開花や栗の収穫よりも、節句の時期が早すぎるようになったため、菊の節句は廃れていき、祝う地域が少なくなっていった。
旧暦では菊が咲く季節であることから。
旧暦では栗の収穫の季節であることから。
陰陽思想では奇数は陽の数で、陽数の極である「9」が重なる日であることから “重陽” と呼ばれる。
七夕 読み:たなばた/しちせき
笹の節句 読み:ささのせっく
とは、
『織姫と彦星が年に一度だけ会えるとされる日』
7月7日
七夕は、日本の伝統行事の一つで、旧暦の7月7日または新暦の7月7日を中心に行われる。
この行事は、中国の祭り「乞巧奠(きっこうでん)」と、日本古来の稲作儀礼「棚機(たなばた)」が融合して成立したとされる。
天の川を挟んで離れ離れになった織姫星(ベガ)と彦星(アルタイル)が、年に一度だけ再会を許されると伝えられており、彼らは夏の夜空を彩る象徴的な星として知られている。
この日に願い事を書いた五色の短冊を笹に飾り、星に祈りを捧げる風習がある。
七夕の起源については、古代中国の伝説「七夕伝説」に由来するとされている。
機織りが上手な織姫 (織姫星/織女星)と働き者の彦星 (牽牛星)は、織姫の父のすすめで結婚した。
しかし結婚後、二人は遊んでばかりで働かなくなったため、怒った織姫の父は、二人を天の川の両岸に別れさせた。
離れ離れになった二人は、今度は悲しむばかりで働かなかったため、織姫の父は仕事に励むことを条件に、7月7日だけ二人の再会を許した。
こうして二人はまた一生懸命に働くようになった。
七夕伝説の中心的な星は、こと座のベガ(織姫星)とわし座のアルタイル(彦星)である。
ベガとアルタイルは天の川を挟んで向かい合っている。
ベガは全天で5番目に明るい星で、太陽から約25光年離れている。
アルタイルは太陽から約16光年の距離にあり、非常に明るい星である。
ベガ、アルタイル、はくちょう座のデネブを結ぶと、夏の夜空を代表する夏の大三角が形作られる。
行事に笹を用いることから。
「たなばた」と読む由来は、昔、7月7日の夜に祖先の霊を祀るため機織りをし、織り上がった布を捧げる行事があり、その織り機の名前が “棚機” (たなばた) であったことから。
短冊 読み:タンザク
とは、
『短い文章を書くための紙』
短「短い」冊「書きとめる札」で、「短い文章を書きとめる札」という意味。昔は薄い木や竹の皮に文章を書いていたことから。
端午の節句 読み:たんごのせっく
菖蒲の節句 読み:しょうぶのせっく
とは、
『5月の節句』
5月5日
端午の節句とは、毎年5月5日に行われる五節句のひとつで、古代中国の風習が日本に伝わり、定着した伝統行事である。
日本では、奈良時代から行われていたが、鎌倉・室町時代以降、武家社会の影響で「男子の成長と出世を願う日」としての色合いが強くなった。
江戸時代になると、端午の節句は庶民にも広まり、現代のような形が確立された。
現在では、男の子に限らず、広く「子どもの健やかな成長を願う行事」として親しまれている。
風習としては、鯉のぼりを立てたり、五月人形や兜を飾るほか、ちまきや柏餅を食べ、菖蒲湯に入るなどがある。
日本では、男子の健やかな成長を願い、各種の行事を行う風習があり、5月5日は「こどもの日」として祝日になっている。
江戸時代中期に誕生した日本独自の風習。
中国の故事「登竜門」に由来し、「人生の困難を乗り越えて立身出世してほしい」という願いが込められている。
子どもが健やかでたくましく育つことを願い、戦国武将を模した人形や兜を飾る。厄除けや魔除けの意味もある。
中国の故事に由来し、ちまきには厄払いの力があるとされた。古代中国の詩人・屈原の伝説が背景とされる。
江戸時代に日本で生まれた風習。柏の葉は新芽が出るまで古い葉が落ちないため、「家系・子孫が絶えない」ことの象徴とされ、縁起を担いで食べられる。
菖蒲の葉や根を湯に浮かべて入浴する。強い香りによって邪気を払い、健康を守ると信じられている。
「端午」とは、本来「月の初めの午(うま)の日」という意味であり、旧暦では5月が午の月とされていたため、5月最初の午の日を「端午」と呼んだ。
のちに「午(うま)」と「五(ご)」が同音だったことから、5月5日が「端午の節句」として定着した。
またこの日は、雨季に入り病気や災いが増える時期とされていたため、邪気を払う力があるとされた菖蒲を使った風習が行われた。これにより、日本では「菖蒲の節句」とも呼ばれるようになった。
江戸時代には、「菖蒲(しょうぶ)」と「尚武(しょうぶ/武を尊ぶ)」の語呂が重なることから、武家社会において男子の節句として重視されるようになった。